今まで両耳難聴として生きてきて
たくさん苦労してきましたが
こんなにもネット社会で情報が溢れているはずのなのに
ネットで難聴の情報を発信している人って少ないな。と思ったり
ネットで発信してる人はろうの人だったり重度難聴の方が多くて
中度難聴について発信されてる人が
少ないなと思っていたので
周りに難聴がいる人、自分自身が難聴の人に
この人はこうやって生活しているんだ、ってことを
発信していけたらいいなと思っています。
それでは身体障がい手帳6級の私の歴史レッツゴー✊🏻
私の難聴歴史
生まれてから保育園へ行っている間は
両親も祖父母も誰も難聴に気づかず、
小学校の入学検査の時に初めて難聴が発覚しました。
親戚では、母方の祖父が重度難聴で
私の父がほんの少し聞こえが悪い軽度難聴です。
父は、ラグビーで耳をやったとか言っていましたが詳しいことはわかりません🙏🏻
地元の小学校にそのまま入学
母が美容師をしていていろんなお客さんから情報を聞いて
手当たり次第、病院に行きました。(市内の耳鼻科はほぼ全部行った)
そこから愛知県内の大府市の「あいち小児保健医療総合センター」に行き着き
小学生の間は学校途中で帰ったりしてまで結構通いました。
結局、原因分からずで両耳 感音性難聴ってことしかわからないです。
記憶がはっきりしてないところが多くて申し訳ないのですが
小学2年生くらいの時に
それも母が知り合いに聾学校の良い先生を紹介してもらい、初めて聾学校へ見学に。
でも今まで気づかないくらいには普通に聞いて喋れてはいたので
聾学校へ行くほどではないなとなりましたが
小学生の間に聾学校にもちょくちょく通っていた記憶があります。
聾学校には学校だけじゃなくて
そういうコミュニティーで意見交換できるような環境があったので
それには一回だけ参加しました。
小2くらいの時に補聴器を一回チャレンジしたのですが
うるさすぎて付けてられず。
小6でもう一回チャレンジして、
最初は片耳だけ付けて
慣らしてから、徐々に両耳つけるようになりました。
中学生も地元の一般の学校へ行きました。
中学生からは、いつも一番前の席で授業を受けていました。
一番困ったのが英語の授業で
発音が聞こえないので、教科書の単語の発音が書いてある本が
本屋さんで売っていたので
3年間そのカタカナで書いてある発音を見て発音を覚えていました。
そして、高校
地元の商業高校へ進学しました。
高校からは周りがなにをやってるか自然な感じですぐ見れるように
1番前の席はやめて、2番目から3番目の席で席替えしていました。
商業高校なので
高校に就職の求人が来るのですが
もちろん一般枠で障がい者枠があるわけでもなく、
そのタイミングで母と話し合い、
障がい手帳を取得して(身体障がい者6級)
高校の一般枠の中で余っている会社から選んで
先生に障がい者枠として就職させてもらえないか
会社に直接電話をしてもらい、
オッケーをもらえた会社に面接して就職しました。
6年半、工場で製造業をやり
その間に夫(健常者)と会社で出会い、結婚して辞めて
現在就活中と今に至ります。
まとめ
今日はすごくザッとですが、
私がここに来るまでにどんな感じだったか話させてもらいました。
これからもっと細かいこと苦労したこと、
どうやって乗り越えてきたかなどを話していけたら良いなと思ってます。
障がい手帳を取るまでのエピソードも詳しく書いていきたいです。
また見てね👋🏻